ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いつまでも残るもの

 

 地上に、いつまでも残り続けるものはあるのでしょうか。

 樹齢の長い樹木を見て感嘆し、大昔からそこにありそうな巨石に圧倒されます。そんな自然物の存在と比較すると、肉なる人間の存在ははかないものです。

 可愛いペットの犬が死に、猫が死に、やがて、大切な家族も亡くなって行く。人生の中には、多くの別れがあります。

 

 死による別れは、悲しみが後を引きます。いつまでも続くと思い違いして、何気なく過ごしていた日々は、いとおしく、いつまでたっても断ち切れない心残りとなります。

 時間は先に進んでいるのに、自分の心の時間は止まったままです。生きているのに、感覚がありません。ぼんやりとした意識は、呼んでも答えのない光のない穴の中を漂っています。

 

 死を迎えて冷たくなった肉体に、肉体そのものはいのちのない物体であったことを気づかされます。この肉体の中にあったいのちはどこへ行ったのでしょうか。

 死んでしまうと、肉体とも呼ばれません。遺体と呼ばれます。遺ったからだです。中身を失った殻の器です。

 

 遺ったからだは、時間の経過とともに、土に還ります。

 土から取られた器は、再び、土に還るのです。

 この土の器を生かしていたいのちはどこへ行ったのでしょうか。肉体の中にあったいのちの動力は何だったのでしょうか。いのちを現わしていたものの正体は何だったのでしょうか。

 

 人は、魂と呼びます。記憶が記録された意識体です。知識も意思も感情も、この中にあります。考えたり、感じたり、肉体の脳と連携しながら、働いていた意識体です。

 この魂は、肉体から取り去られると、肉体のない魂として存在し続けるようです。

 母親の胎の中にはいる以前は、光の世界で魂として存在していたようなのです。魂は、母親の胎内で形造られる肉体を着て、人間としての生命をスタートさせるようです。

 

 輪廻転生の概念は、人間の作り話ではないようです。

 魂はとこしえに存在するものです。肉体には寿命がありますが、魂には寿命がないようです。

 魂は、ひとりの生涯を通して学び、また、新しい肉体を着て学び終えていない学びを続け、それを繰り返しながら、いのちの動力であり、いのちの根源である神のもとに帰る整えの修復工事がされているようです。

 

 魂は、世の初めからあったと、聖書のどこかにあったように記憶しています。

 この魂は、天から追放された堕天使たちではないかと思います。

 堕天使ルシファーに従って悪霊となった堕天使たちもいますが、悪霊とならなかった堕天使たちもいます。その堕天使が、エデンの園を追放されたエバやエバの子らが産んだ娘たちが美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分の妻とした、という神の子らだと思われます。

 

 神の子らとして存在した魂もあれば、人の子(アダムの子孫)として生まれた魂もあったのでしょう。

 しかし、それらすべては、ノアの時代に大洪水で息絶えています。魂に戻っています。

 

 魂は、いつまでも残るものです。その魂を肉体にいれて人間として生み出しておられるのは、創造主なる神です。

 

 堕天使長は、天を追放され、闇で、悪魔に変わりました。堕天使長は悪魔となり、堕天使長に従う堕天使たちは悪魔に仕える悪霊どもとなりました。

 

 全き光には、神と神に仕える御使いたちがいます。

 御座に着いておられる父なる神と、その傍らにおられる神のひとり子と、光に満ち満ちておられる神の霊である聖霊、そして、神を賛美する御使いたち。

 

 全き光の延長に闇があるのではなく、全き光と漆黒の闇とは別の次元にあるのだと考えます。

 全き光の神は、いつまでも、闇の存在を放置されることはありません。

 堕天使長ルシファーは、闇を愛し、漆黒の闇は悪魔と悪霊どもの住まいとなっています。私たちが宇宙と呼ぶ空間です。

 多くの銀河が存在していて、それらの星々に住む神の子ら(堕天使)もいるのでしょう。私たちが宇宙人と呼んでいる生命体です。

 

 神は、光を懐かしむそれらの堕天使たちの救いの管理者として、「人」を造られたのかもしれません。

 人が管理するエデンの園には、いのちの木と、善悪の知識の木がありました。

 神を主とし、神に聞き従ういのちの木の実と、自分を主とし、神のような知識を得るための善悪の知識の木がありました。

 闇を滅ぼすに当たって、闇の中にある良いもの(悔い改めて神に立ち返る堕天使)にいのちの木の実を食べさせて、神のみもとに帰らせる計らいだったのかもしれません。

 

 「人」は神のことばと一つです。神のひとり子と繋がっている者でした。神のひとり子とともにエデンの園を管理することを任された人は、よく整えられた堕天使をエデンの園に招き入れていのちの木の実を食べさせるという、管理者としての任務を果たすよりも先に、神に食べてはならないと命じられていた、死をもたらす善悪の知識の木の実を食べて、自ら悪魔と同じ裁きを受ける者となってしまいました。

 土から造られた人は、堕天使たちの救いとはなりませんでした。人は自ら、堕天使と同じような、神から離れたものとなってしまったのです。

 

 神の憐れみは尽きません。

 良いところが残っているものを、悪魔といっしょに滅ぼしたくはありません。

 すべての魂に救いのチャンスを用意されました。人も、堕天使も、宇宙人もありません。すべてのものは、神に罪を犯し、罪が裁かれるものです。

 

 人間として生まれる魂を集めて、肉体を造り、地上の女から生み広げ、不義の魂を、肉体の中で苦しめながら清め整えられます。

 現在胎内記憶を持つ子どもが多くいて、みな共通して、肉体にはいる前は、魂として光の中にあった、ということを話すそうです。

 

 ひとつの魂は、幾つかの人生体験をして、知恵ある魂、成長する魂として、救いにふさわしい状態に整えられて、地球に用意された罪の贖いの神の子羊の血によって罪の清算をして、全き光に帰るために、永遠のいのちを得る魂として完成されることが、人として生まれる目的のように、私は考えるようになりました。

 

 現在人間として生きているのは、魂の完成に至っていないからでしょう。

 そして、終わりの日が近づいた今は、魂の選択の時です。もはや、生まれ変わって、人生をやり直すチャンスはないのだと思います。

 今生で、魂の試験は終了します。それゆえ、慎重に生きるべきだと考えます。今生の生き方によって、魂の値打ちが定まってしまうからです。

 

 千年王国の時代に入って生まれる人間は、宇宙の星々にいた宇宙人(堕天使)の魂なのではないかと思います。

 千年王国は、人として生まれた魂のうち、信仰に勝利し永遠のいのちを得た御霊の教会の人たちが、エデンの園の管理者であった人(アダム)に任されていた、いのちの木の管理をする務めを果たすのだと思います。

 

 千年王国は、エデンの園の回復だと、考えられています。

 エデンの園には、神のことばである御子と、アダムがいました。いのちの木と善悪の知識の木が植えられており、堕天使たちの試みの場所(罪を悔改めて神に立ち返る御救いが用意された御恵みの場所)だったと思います。

 エデンの園を管理する者として、アダムが置かれていました。

 

 千年王国では、神のことばである御子が「王」となって、王座に着いています。

 王座のある都の中に、いのちの木があります。善悪の知識の木はありません。

 王の王であるキリストの国は、御霊によって新しく生まれ神の子どもに造り変えられた新しい人、永遠のいのちを得た第二のアダム(御霊の教会、キリストのからだ)が管理者として置かれています。

 

 エデンの園は、いのちの木のある千年王国として回復します。

 神のことばは、千年王国の王、神の子羊イエス・キリストとして、世界を支配しています。

 エデンの園の管理者のアダムは死に、いのちの木を管理するのは、死から甦ってキリストの御霊(永遠のいのち)を得る第二のアダム(御霊の教会、キリストのからだ)です。

 

 仏教における全宇宙、すべてがひとつとなる三千世界の実現です。

 全宇宙の生命体の魂の卒業セレモニーです。

 いのちの書に名前のしるされた魂は、都に入って、いのちの木の実を食べ、キリストの国民とされます。

 いのちの書に名前のしるされていない魂は、都に入ることが許されません。

 

 いつまでも残るものは、魂です。

 合格し、いのちの木の実を食べる魂は、永遠のいのちを得て、天の御国に入ります。永遠のいのちと永遠のからだを得させられるそれらの魂は、神の子どもとされて、キリストともに天の御国を相続し、永遠の安息に入ります。

 いのちの木の実を食べない魂は、いのちを得ることがなく、永遠の死に定められて、永遠の火の池に投げ込まれます。夜も昼も消えることなく、休みを得ることはありません。魂はいつまでも残るものです。永遠の死が定められた魂は、永遠に火と硫黄で苦しめられます。

 

 こうして、全き光は、安息を取り戻します。

 反逆の悪魔も闇も死も、永遠の火の池でとこしえに燃やされ続けます。

 

 「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(コリント13:13)

 永遠のいのちを得る魂の中に留まっています。

 

 永遠のいのちを得ない魂の中には、信仰も希望も愛も留まっていません。