ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ローマ書六章 キリスト・イエスにつくバプテスマ

 

 神のひとり子ナザレのイエスは、人類の罪となって、十字架で死なれました。

 「木にかけられた者は、神に呪われた者である。」と聖書にあります。イエスは、私たちに代わって、神に呪われた者となってくださいました。

 

 悪魔の言葉を話す蛇の言葉に聞き従った人は、エデンの園から追放されて、天から追放された悪魔の奴隷となりました。

 天から追放された悪魔は、罪の頭です。人は、罪の奴隷となったのです。

 

 天の法に逆らう悪魔のために、神は、火の池を用意されました。神は、反逆者たち(悪魔と悪霊ども)のために、永遠の裁きを定めておられます。

 罪に定められた悪魔の奴隷となった人もまた、罪に定められて、神に裁かれます。

 

 悪魔と悪霊どもには、悔いる心はありません。一つの良い所もない闇深い悪しき破壊者だからです。光のない闇です。光がないどころか、光を飲み込むブラックホールです。

 しかし、人には、闇を恐れ、光を慕う心があります。完全な闇ではないのです。

 

 神は、完全な闇になっていない「人」の、光を思う部分をご覧になっておられます。神は、その部分を惜しまれます。すべてが悪いものとはなっていないからです。

 無から有を生じさせる神は、そのわずかな望みの部分に、いのちを吹き入れることがおできになります。

 

 闇は光を拒絶します。完全な闇である悪魔にいのちを吹き入れても死に飲み込まれるだけです。悪魔は、神のいのちの光ではなく、死と破壊の闇を愛しているからです。

 しかし、人のうちには、望みがあります。望みを持つ捕われ人なのです。

 

 闇の破壊力に恐怖を抱いて救いを求める人々を、神は、放っておかれるお方でしょうか。いいえ、神は愛に溢れ憐れみに満ちたお方です。悪魔に捕らわれて罪の奴隷の苦しみにうめく彼らを、悪魔の牢から解き放って闇から救い出し悪魔の死から解放して、光に連れ戻すことを御計画されました。

 

 悪魔の牢にはいって死に定められた人を救い出すために、神は、神のひとり子に肉体を造って「人の子」として、地上に遣わされました。

 悪魔の支配から救い出した人の罪をきよめ、闇の縄目を打ち破って、いのちを与え、光の子に造り変えるためです。

 神が遣わされた「人の子」は、神のひとり子であり、世の光、救い主です。悪魔を裁くために用意された火の池に、悪魔とともにはいる「人」を、火の滅びから救い出し、死からいのちへと移してくださる救世主です。

 

 愛なる神は、聖なる神であり、義なる神です。完全な愛と完全な聖と完全な義の御性質を併せ持つ神は、完全な光です。しみのある者、しわのある者、傷のある者は、完全な光の御前に立つことができません。闇は、完全な光の中で生きることができないからです。

 

 完全な光の中では、しみもしわも傷も闇の部分です。完全な光ではないものが、完全な光の中に存在することはできません。ただちに消滅してしまいます。

 

 完全な闇の悪魔に捕らえられた人を、完全な光の中にはいらせるためには、人の罪を取り除く必要がありました。

 

 神は、罪人の罪を取り除く人の子の血を要求されました。罪のない人の血です。血はいのちです。血の中にいのちがあるからです。

 神は、罪人のいのちを救うために、罪人の罪の身代わりとなる、人の子のいのち(血)を要求されました。罪の身代わりの神の子羊が必要です。罪の生贄の子羊です。しかも、それは、獣の子羊ではなく、人の子の子羊でなければなりません。しみもしわも傷もない、全き人の子が生贄とならなければなりません。

 

 神の祭司の民のユダヤ人の女から生まれる、肉体の中にはいった神のひとり子が、神の御心を満足させる「全き人の子」でした。

 ベツレヘムで処女のユダヤ人から生まれ、ダビデの子として住民登録された、ナザレのイエスこそが、神がイスラエルに遣わされた「世の罪を取り除く神の子羊」でした。

 

 神の子羊イエスの血は、神に満足される全き血です。聖なる神が用意された、唯一の神の子羊の血です。神の子羊イエスの血は、世の罪を取り除いて余りある、すなわち、罪人の罪を完全に贖う力のある、完全な贖いの血でした。

 イエスの血は、どんな罪をも取り除き、どんな罪をも赦す力を持つ、完全に聖なる血です。完全な聖であられる神は、子羊イエスの血を満足されます。

 

 完全な義であられる神は、神の子羊イエスの血を全き聖とされて、全き聖なる神の子羊イエスの血に覆われた罪は、すべて赦されます。神の子羊イエスの血によって聖とされるからです。神は、神の子羊イエスの血によって聖とした人に罪を認めることなく、義とされます。

 

 罪人は、神の子羊イエスの血の贖いを信じて、救い主イエスを仰ぐならば、神の御計画の中にみずから入ることになります。闇を打ち破る天からの光、神の御子イエスを信じる人は、信仰によってイエスにつく者とされるからです。

 

 彼らは、イエスのことばを信じたのです。

 天の神のことばを語るイエスのことば、天の法の教えの基準に服従する人は、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

 

 罪から解放されて、神の奴隷となり、聖潔に至る実を得る者とされます。

 イエスは、神に義とされた人に、真理の御霊を授けられます。真理の御霊は、義人のうちに宿り、神の子どもにふさわしい「新しい人」に造り変えるために、キリストの性質を彼のうちにかたち造っていかれます。

 

 天に迎え入れられる「人の子」は、死から甦られ御霊による新しい創造の新しい人(第二のアダム)キリスト・イエスです。

 キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた人はみな、神の子羊イエスの死にあずかるバプテスマを受けたのです。

 

 イエスは、十字架で死なれました。同様に、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちも、その死にあずかるバプテスマを受けたのです。すなわち、肉に死に、罪に死んだのです。

 

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から甦られたように、私たちも、(キリストの)いのちにあって新しい歩み(天の御国で生きる神の子どもとして新しく造り変えられる「新しい人」の歩み)をするためです。

 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じように(十字架で闇の子らにののしられ嘲られ憎まれ捨てられてもなお、死に至るまで神に信頼して神に従順な神の子ども)になっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(キリストが死から復活されたように、私たちも死から甦り、永遠のいのちを得させられるのです)」(ローマ6:4、5)

 

 「罪の支払う報酬は死である。

 しかし、(キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちにお与えになる)神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)

 

 

 聖歌419 あなたの持てる悩みは

1、あなたの持てる悩みは解決できたか 心の奥にいつまで隠しておるのか

  主は赦したもう 主は赦したもう どんな罪でも 主は赦したもう

 

 2、滅びの淵につながるあなたの罪をば 救いの主の御前に告白できたか

  主は赦したもう 主は赦したもう どんな罪でも 主は赦したもう

 

 3、「彼らを赦したまえ」と祈った主イエスの 祈りは今も続いてささげられてある

  主は赦したもう 主は赦したもう どんな罪でも 主は赦したもう

 

 4、「私を救いたまえ」と祈ればよいのだ あなたの罪のきよまる手順はついてる

  主は赦したもう 主は赦したもう どんな罪でも 主は赦したもう