アブラムは、神のことばに従い、父テラの家を出てカナンの地へ出発しました。妻のサライと甥のロトとしもべたちとともに、カナンの地にはいりました。
主がアブラムに現われ、「あなたの子孫に、わたし(全能の神、主)はこの地(カナンの地)を与える。」と仰せられました。
カナンの地は、エジプトのナイル川からイラクのユーフラテス川にわたる広範囲の土地であり、その土地にはケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ぺリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人が住んでいました。すでに住民のいるカナンの土地を、天地万物を造られた主が、アブラムと契約を結んで、アブラムの子孫に与える、と約束されたのです。
人間的には不可能に思えることでも、神に不可能はありません。アブラムは、人間の常識を逸して、神のことばを信じたのでした。
ほかの人に話そうものならば、一笑に付されるでしょう。あり得ないことです。外国から来たアブラムがその土地の人々、しかも、十の民族がそれぞれの領土としている土地のすべてを、アブラムから出るアブラムの子孫、一つの民族のものとするというのです。
アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築きました。
アブラムはなおも進んで、旅を続けました。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んだ人でした。
その土地にあった激しい飢饉を逃れてエジプトに滞在したあとで、再び、祭壇を築いた場所に戻って来たアブラムは、全能の神、主の御名によって祈りました。
アブラムの家畜の群れ、甥のロトの家畜の群れの数が増えると、いっしょに住むのが困難になりました。
そこで、ロトは自分が選んだ低地の町に移住し、ソドムの近くまで天幕を張りました。ソドムの町の人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人でした。
アブラムは、ヘブロンにある樫の木のそばに来て天幕を張り、そこに住みました。アブラムは、そこに主のための祭壇を築きました。
ロトの天幕のそばには、邪悪なソドムの人々がおり、アブラムの天幕のそばには、主の祭壇がありました。
神は、アブラムの名をアブラハム(高貴な父)と呼び、契約のしるしの割礼を命じられました。アブラハムは割礼を受けて、神との契約の中にはいりました。
さて、ソドムの人々の暴虐が満ちると、ソドムとゴモラの叫びが天に上り、主の御使いたちがソドムの状態を視察に来ました。
神はそのことを、アブラハムに隠されませんでした。
神がアブラハムを選び出したのは、アブラハムがのちの家族(アブラハムの子孫)に命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせる(主の道に歩む)ため、主が、アブラハムについて約束したこと(カナンの土地の相続の約束と、地上のすべての民族の祝福の基となるという約束、すなわち、アブラハムの子孫から救世主が現れるという約束)を、アブラハムとアブラハムの子孫の上に成就するためだったからです。
主がソドムの町を滅ぼすことを知ったアブラハムは、その御使いに申し上げました。
「あなた(御使いを遣わされた主)は本当に、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。本当に(ソドムの町全体を)滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなた(神であられる主)がなさるはずがありません。(主はいのちを生み出すお方ではありませんか。それなのに、何故正しく生きている者を殺すのですか。)とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」(創世記18:23-25)
主は答えられました。
「もしソドムで、わたし(主)が五十人の正しい者を町に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(創世記18:26)
アブラハムは考えました。(五十人の正しい者がいないかもしれない。もし、五十人の正しい者に不足していたならば、主は滅ぼしてしまわれるのだろうか。)
四十五人、四十人、三十人、二十人と正しい者の数を減らして、アブラハムは主と交渉しました。
ノアの時代、ノアとノアの家族八人だけが救われました。十人くらいは正しい者がいるだろうと、アブラハムは、最後に申し上げました。
「主よ。お怒りにならないで、今一度だけ私(主のしもべアブラハム)に言わせてください。もしやそこに十人(主を恐れる正しい者)が見つかるかもしれません。」(創世記18:32)
すると主は仰せられました。
「(暴虐に満ちたソドムの町を)滅ぼすまい。その(正しい)十人のために。」(創世記18:32)
ソドムには、低地を選んで、アブラハムから分かれて移住した甥のロトが住んでいました。
ノアの時代には、神を恐れるノアとノアの家族の八人を箱舟にいれて大水から守り、残りのものすべてを大水で滅ぼされた主です。
主のしもべアブラハムが執り成すと、主は、十人の正しい者がソドムの町の中にいるならば、ソドムの町を滅ぼさない、と誓われました。
主の御使いたちは、ソドムの門のところにすわっていたロトに言いました。
「ほかにあなたの身内の者がいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所(この町)から連れ出しなさい。
わたしたちはこの場所(ソドム)を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたからです。」(創世記19:13)
ロトの身内の者には冗談のように思われました。ロトとロトの家族、妻と未婚のふたりの娘の四人だけが御使いの促しに従って、町を出ました。
御使いは言いました。
「急いでそこ(ロトがめざすツォアルの町)へのがれなさい。あなたがあそこ(ツォアル)にはいるまでは、わたし(御使い)は何もできないから。(ロトが逃げる先のツォアルの町は滅ぼすまい。)」(創世記19:22)
神は、救いに定めた人々が安全を確保するまでは、わざわいを起こされないようです。
ロトの妻は、失ってしまう置いて来たものに心が引かれてうしろを振り返ったので、塩の柱となってしまい、逃げ延びることができませんでした。
神のことを恐れる正しい心の者は、ソドムに三人しかいなかった、という結果になりました。
しかし、ソドムの町を滅ぼそうとされた神が、神のしもべアブラハムの執り成しによって、思い直されたのは事実です。
ソドムの町に、神を恐れる正しい人が十人いなかったので、ソドムの町全体が滅ぼされました。
アブラハムの神は、生けるまことの神であられ、アブラハムの子孫には「イスラエルの神」と名乗られる方、また、神の御子イエス・キリストの父であられる方です。
キリストを信じる者は、神の御子イエス・キリストの御名によって、父なる神に執り成すことができます。
たった十人の忠実なしもべがいるならば、神はその町を守られます。ロトのように町から出て行かなくてもよいのです。
世界中で起こっている災害は、滅ぼすためではありません。眠っている魂を目覚めさせるためです。
主のしもべは、なにより先に目覚めて、自分の住む土地の贖いのため、住民の目覚めのため、人々が聖なる方のもとに行くことのできない自分のうちの罪汚れに気づくため、聖なる神に立ち返るため、心を砕いて悔い改めきよくなることを願う者となるために、執り成しましょう。
大難を小難に、小難を無難に。祈りの力によって、神にご介入していただきましょう。
私たち人間が変われば、神は思い直してくださる、慈しみ深く優しい神です。
祈りによって、神を恐れる真実な主のしもべとならせていただきましょう。何もないことを当たり前と思わず、主に感謝をささげ、常に主を賛美する者でありましょう。
災いの中で、悔い改めて心低くするならば、神は、以前に増す祝福をもって臨まれ、嘆きを踊りに変えてくださる方です。
ヨブの終わりを思い出しましょう。
七人の息子と三人の娘を失い、財産を失い、しもべたちに蔑まれたヨブの痛みと悲しみとは如何ばかりだったことでしょう。その上、友人たちはヨブを罪に定めて責め立てます。
災いは、ヨブの罪のためではなく、神を畏れ、悪から遠ざかっているヨブの潔白で正しいことを証明するために、神が許されたものでした。
災いの中でも、ヨブは恨み言ではなく、神をたたえました。
しかし、友人たちが罪の結果であるとしてヨブを責めると、ヨブの心は折れ、嘆く者となりました。
しかし、神はヨブの潔白を告げられました。
真実を語らなかったヨブの友人たちを怒り、全焼の生贄を要求されました。ヨブが彼らのために祈ると、神はヨブの祈りを聞き届けて、彼らを赦されました。
主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増されました。
主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福され、息子七人と、娘三人を持ちました。ヨブの娘たちほど美しい娘はこの国のどこにもいなかったとあるほどに、災いのあとでヨブは祝福されたのです。
苦難から救い出し、赦しと愛と恵みを与えられる、憐れみ深い真実な主を知るダビデは言います。
「聞いてください。主よ。私をあわれんでください。
主よ。わたしの助けとなってください。
あなた(主)は私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布(悔い改め)を解き、喜びを私に着せてくださいました。」(詩篇30:10,11)
日本人の喜び、日本に喜びが溢れるのは、イエス・キリストの父に祈りをもって近づくキリスト者の栄えある恵みの務めなのです。
もし、キリスト者が祈らなければ、神を畏れるほかの日本人に祈りを起こされるのでしょう。
日本列島は、祈りによって守られ、神を恐れる正しい人々の祈りによっていのちを得るのです。