「悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたし(神)のすべての掟を守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。
彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
わたし(主)は悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ。―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(いのちの主は、だれも死ぬことを喜ばない)
しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。(神は、悪者をさばかれる。しかし、悪者が罪を悔い改めるならば、悪者の罪を赦して義とされる。正しい人が神にそむいて不正をした場合、今まで正しい生き方をして来たので神は見過ごされるということはない。悪者であっても罪を悔い改めるならば罪は赦され、正しい人でも不正をするならば罪に定められる。神はすべての人に公正である)
あなたがた(ユダヤ人)は、『主の態度は公正ではない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたし(主)の態度は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。(彼は自分自身の罪によって死ぬのだ。罪を悔い改めない良心は腐っており、その不正は残る。不義の者は死ななければならない)
しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。(彼は公義〈罪を悔改める〉と正義〈神の掟に従う〉を行なうことで、神〈いのちの道〉を選んだのだ)
彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。(神は、罪を悔い改める者の罪を赦す。これが、神が人に与える義であり、救いの道である)
それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正ではない。』と言う。イスラエルの家よ。わたし(主)の態度は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
それゆえ、イスラエルの家よ、わたし(主)はあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。―神である主の御告げ。―悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。(不正に気づいたならば、悪事を離れることを決意して、自らの意志を持って闇との関わりを断ち切れ)
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、(罪を悔い改め神に立ち返る)新しい心と(神に罪を告白し不正から離れて神とともにある)新しい霊を得よ。
イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは(自分の罪を認めず、悔い改めもせず、自分自身の義を主張して、神にへりくだることをせずに)死のうとするのか。
わたし(主)は、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ。―だから、(初心に帰って、純真な幼子のような心で主の御前に出て)悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:21-32)
エゼキエルの時代、イスラエルの家と言えば、ヤコブの子孫ユダヤ民族十二部族のイスラエル王国、すなわち、神が祭司の国民として選ばれた神の民のことでした。
旧約時代は、アブラハムの血肉の子孫との契約の時代です。彼らの中から、救い主が生まれるという契約を持っていました。
約二千年前、神は、イスラエルとの約束を成就されました。
神は、ナザレに住む処女マリアに御使いガブリエルを遣わして、マリアの胎内に聖霊によって神のひとり子イエスをみごもらせたのです。
許嫁の夫ヨセフとともに、ヨセフの先祖ダビデの町ベツレヘムに行き、ベツレヘムでイエスを産みました。
その土地の羊飼いたちに、御使いが現われて、告げました。
「(あなたがたは神の使いを見て)恐れることはありません。今、わたしはこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(イスラエルが待ち望んだ聖なる神のキリストです)
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(飼葉おけに寝ておられるみどりごがキリストです)」(ルカ2:10ー12)
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言いました。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)
イエス・キリストの降誕は、天の栄光であり、地に訪れた平和でした。
イスラエルにキリストが現われて、新しい契約「永遠のいのちの契約」を結ばれると、アブラハムの血肉の子孫に加えて、アブラハムの信仰の子孫が加えられました。
アブラハムの血肉の子孫は、神が「アブラハムの子孫」とお呼びになる、ヤコブの血肉の子孫ユダヤ民族十二部族です。
アブラハムの信仰の子孫とは、信仰によってユダヤ人の中に加わった在留異国人のイスラエルと、新しく、神の御子イエス・キリストと契約を結んで「神の民」に加えられるキリスト者の異邦人のことです。
神は、アブラハムの血肉の子孫とアブラハムの信仰の子孫とを合わせて、「新しいイスラエル王国」を建てられます。それは、神と「いのちの契約」を結んだ神の国であり、イエス・キリストを王とする「とこしえのイスラエル王国」の国民です。
エゼキエルがユダヤ人たちに語ったみことばは、新しい神の民キリスト者へのみことばでもあります。みことばは、神の民に語られ、また、みことばは普遍のものだからです。
ユダヤ人たちは、イエスを信じることができず、十字架につけて殺しました。
イエス・キリストを信じるユダヤ人たちを迫害し、ユダヤの会堂から追放しました。
ユダヤ教徒は、『旧約聖書』の律法によって、神を知っていました。人の子の姿の神の子羊キリスト・イエスのことは知りませんでした。
キリストは、イスラエルを贖い、離散している十二部族を一つの国民とし、ユダヤ人の国を再興し、世界の国々の上に高くしてくださる方です。
しかし、民衆が「キリスト」と呼ぶナザレのイエスは、イスラエルをローマ帝国の圧政から救い出すこともなく、イスラエルを再興することもありません。
イエスは、神の祭司の国民に、祭司長や律法学者たちの義にまさらなければ、天の御国にはいることはできない、と言い、また、律法学者やパリサイ人たちを厳しく叱責されます。
祭司長や律法学者や長老たちがイエスにつまずくと、ユダヤ人たちもつまずきました。
ユダヤ人たちの不信により、キリストの福音(永遠のいのちの福音)は、異邦人に及びました。
割礼と律法を守って来たユダヤ人たちは、キリストを信じる異邦人たちにも、割礼と律法を強要しようとしました。
しかし、イエスの弟子である使徒たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、異邦人に割礼と律法は必要ない、としました。
イエス・キリストの血によって異邦人の罪も贖われ義とされて、キリストの御霊によって永遠のいのちを得させられるのです。
永遠のいのちの新しい契約には、ユダヤ人も異邦人もありません。イエス・キリストの十字架の死は、世の罪を取り除くためでした。割礼と律法の民ユダヤ人と、無割礼の異邦人との隔ての壁は、イエス・キリストの十字架によって取り除かれました。
無割礼の異邦人が罪を悔い改めて、イエスのことばに聞き従うならば、神に義とされて、神の御国にはいるのです。
割礼と律法の民ユダヤ人が、たとい律法に熱心であっても、イエスのことばに聞き従わないならば、神に不義とされて、神の御国から締め出されます。
キリスト者たちにも、同様のことが起こります。
『聖書』を信じて、水のバプテスマを受け、教会に集い、キリスト信者としての歩みを続けていても、霊によって神を礼拝しなければ、天の御国にはいることはできません。天の御国は、肉の人の国ではなく、永遠に生きる御霊の人の国だからです。
キリスト教徒以外の人の中に、霊によって神を知る人々が起こります。聖書を知らない人々から起こります。神道からも、仏教からも、無宗教の人々からも起こります。
水のバプテスマを受けてキリスト教会に属していない人々が、御霊の教会にはいって自由の喜びと平安を得るのです。キリスト教徒の常識はくつがえされます。キリスト教会は試されます。神の大いなる愛と赦しの御恵みを悟らず、彼らを非難する人々も起こることでしょう。そして、「キリストに仕えて来たのは私たちではないのか。神は公平ではない。」とつぶやくのです。
神は、だれが死ぬことも喜ばれません。悪者であっても、その態度を悔い改めて生きることを喜ばれます。
つぶやくキリスト教徒たちに神は仰せられます。
「不義に引き込まれることがないようにせよ。御霊に教えられておらず、御霊によって神を悟らない不正を悔い改めて、新しい心と新しい霊を得よ。なぜ、あなたは死のうとするのか。(永遠のいのちを得て天の御国にはいるのは、キリスト教会ではなく、御霊の教会であることを学びなさい)
わたし(主)は、だれが死ぬのも喜ばないからだ。
だから、悔い改めて、生きよ。」