ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生まれつきのままの人間

 

 ユダの手紙17-19に、こう書いてあります。

 「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語った言葉を思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。

 『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままに振舞う、嘲る者どもが現れる。』

 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」

 

 生まれつきのままの人間は、蛇に惑わしされ善悪の木の実を食べた人間です。創造主に従わないで、肉の思いのままに生き、創造主が分からなくなった人間です。いのちの源がわからなくなった人間は、私という自分を命の中心に置き、自分の意思と努力を宝とします。自分自身が人生の主人です。自分を高めることを善とします。

 

 創造主である神は、御自身の名前を「わたしはある」と、モーセに告げられました。すべてのものの存在の源である方です。神は他のものに助けられ支えられなくても、神御自身で永遠の昔から存在しておられる、「在る方」なのです。

 

 すべてのものは、「在る方」に創造された被造物です。天も地も海も宇宙も人も「在る方」に創造されました。神によって生まれたのです。

 

 「わたし」という方もおひとりだけです。人々は、「わたし」のいのちを生きる細胞のようなものです。人は自分自身を「私」と表現しながら、まことの「わたし」の存在を知りません。人は、自分という場で、「わたし」のいのちを生きているのです。

 

 イエスはそれを実践された「人の子」です。イエスは、「わたし」なる神のいのちで生きられたのです。イエスは、自分自身からは何事もせず、ただ父(創造主)が自分に教えられた通りに、話し行われました。イエスは、自分がどこから来たか、また、どこへ行くのかを知っておられました。

 

 イエスは、善悪の知識の木の実を食べた女の子孫として肉体をもって生まれた人の子でありながら、霊は、神とともにありました。イエスは、ご自分がどこから来たのか知っておられたからです。

 

 神の特別な召しを持たないほとんどの人は、善悪の木の実を食べたアダムの性質を受け継ぎ、罪の中を歩みます。生まれつきの罪人です。神のように生きることが出来ません。親に教えられたわけではないのに、嘘をついたり、盗んだり、人を憎んだり、悪口を言ったり、裏切ったり、争ったり、自分の悪を隠します。生まれつきのままの人間は、アダムの性質を受け継いでいます。自分の罪を隠します。アダムを捕らえた悪魔の性質は、自分の罪を認めません。自分には罪が無いとします。悪魔は悔い改めることが出来ません。

 

 アダムとエバが善悪の木の実を食べた時、最初に行なったことは、相手の目を意識して恥じを隠す事でした。そして、神から隠れ、彼らは恐れで覆われました。彼らの霊は神から外れ、塵から造られた肉体を自分自身とし、彼らの霊は死にました。

 

 霊的な死人として、肉体人間は世に生まれます。肉体が自分自身であるとし、自分がどこから来たのかは分かりません。創造主から離れた人間は、自分で生きているとし、命を自分のものと考えます。自分以外の誰がいるというのでしょう。「私」という自分が生きており、自分が人生の主人公なのです。

 

 神は人に永遠を想う思いを与えておられます。ある人々は永遠に思いを向けます。それが、不老不死の思想に繋がって行くのです。実は、これは人間から出た思想ではなくて、神が与えられたものであり、神の世界そのもののことなのです。人は知らず知らずのうちに、自分を造られた方、魂の故郷を求めているのです。

 

 アダムの霊は、死に捕らえられました。しかし、霊は死ぬことがありません。永遠に存在するものです。死に捕らえられた人の霊は、永遠のいのちを失いました。神のいのちから離れた霊は、幹から切り離された枝のようです。花は咲かすが実は結びません。やがて、枯れて捨てられます。

 

 生まれつきのままの人間は、人間の魂を所有する悪魔(人は、蛇の言葉に従い悪魔の奴隷となった)の性質を受け継いでいます。悪魔の奴隷となったアダムの子らは、奴隷として生まれ、奴隷として死んでいきます。奴隷から解放されることはありません。悪魔の奴隷から自由になることは出来ないのです。

 

 この悪魔の縄目を断ち切ったのが、人の子イエスの十字架の血でした。悪魔の支配を破り、悪魔に捕らえられた悪魔の奴隷を解き放つ神のわざです。

 

 生まれつきのままの人間は、悪魔の奴隷ですが、イエス・キリストの贖いの血を信じ受け取る人は、悪魔の支配から解放され、悪魔の奴隷から神の奴隷になるのです。

 

 人は、自分で生きているのではありません。見えない霊によって生まれ、見えない力によって生かされている被造物です。自分のうちに動力があるのではありません。自分の心臓を動かす目に見えない動力によって、生かされている存在です。人間は、自分自身で存在することは出来ません。いのちを吹き込む霊が必要です。いのちの霊は、神から出ているのです。

 

 しかし、生まれつきのままの人間は、神の存在を知りません。悪魔が人間の思いを握り、悪魔の霊によって、この世を支配しています。霊なるまことの神の存在を知らない人間は、それぞれ思い思いに神を持っています。それは、お金であったり、偶像であったり、一人ひとり、自分の良いと思うものに心を向けます。悪魔は、神が人に与えておられる、永遠を想う思いを巧みに利用して、神の座(人間の心の王座)に悪魔のものを置きます。

 

 生まれつきのままの人間は、神のことを知りたがりません。彼らは、肉によって生きる者です。肉によって生きる者は、神の御霊によって生きる者を憎み迫害します。

 

 生まれつきのままの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。御霊に属することは、生まれつきのままの人間には愚かなことだからです。彼らは御霊のことを悟ることが出来ません。生まれつきのままの人間は、永遠のいのちを持っていないのです。

 

 御霊によって生まれる人々は、生まれつきのままの人間たちに、苦しめられ命を狙われます。しかし、信仰を持ち続けて、信仰に勝利する者は、御霊の教会の狭き門をくぐり、永遠に生きる神の子となるのです。