ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

新しいいのちを得る

 

 「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

 そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

 

 聖書には、人の成り立ちが書かれています。

 初めに、神は、土の塵から人の形のものを造られました。

 粘土をこねて、人の形のものが造られたことを想像してみましょう。

 

 ただの置物のようなものです。人間が粘土からつくると、その人が創作した物ができます。しかし、いのちのない静物です。

 神は、人の形の静物のその鼻にいのちの息を吹き込まれました。神がいのちの息を吹き込まれると、人は生き物となりました。

 

 人は、いのちの息が吹き込まれたので、いのちあるものとなり、息をして動くものとなりました。

 動くだけではありません。神のことばを聞き、神と交わる生きものです。

 

 神が、「われわれ(父なる神、子なる神、聖霊)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)と仰せられたので、人は、神の交わりの中にあって、神のように感情(愛、喜び、平安)を持ち、また、神のひとり子(神のことば)とひとつに繋がるものとして造られました。

 

 人は、神の御子のために、神によって神の御子とともに造られたのです。

 

 しかし、人は蛇(蛇のかしらは悪魔)に騙されて、悪魔の言葉に従い、神のことばから外れてしまいました。

 神のことばには、神の主権があり、悪魔の言葉には、悪魔の主権があります。

 神のことばは、普遍であり真理です。

 悪魔の言葉は、滅びであり偽りです。

 

 真理と偽りとは、相反するものであり、一致することがありません。人が神のことばに従うならば、その人の主人は神であり、悪魔の言葉に従うならば、その人の主人は悪魔です。

 

 蛇の言葉に従ったアダムとエバは、悪魔に捕らえられました。悪魔の言葉に結びつけられてしまったのです。逃げることはできません。逃げてもどこまでも追いかけて来ます。

 

 偽りの言葉を愛したアダムとエバは、エデンの園から追放されました。神のことばと繋がっていた人の霊は、悪魔の言葉と繋がったことで、みずから神のことばとの繋がりを断ち切ったのです。

 

 人の鼻にいのちの息を吹き込んで、生きものとされた神は、仰せられました。

 「わたしの霊は、永久には人のうちに留まらないであろう。それは人が(土から取られた)肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」(創世記6:3)

 

 肉体をもって息をしている人間は、生きている人です。いのちのある者です。しかし、そのいのちは人のものではありません。

 人はだれでも、神の霊(いのちの息)によって息をし動き生きています。いのちは自分のものではないようです。

 神がお定めになった時に人から神の霊が取り除かれると、肉体は、空っぽの置物のようになります。息をしなくなった人は、すべての機能を停止し、ただの物体のようになります。

 

 女から生まれた人はみな、母の胎から出て来ると、鼻から息をする者となります。そして、神が定められた寿命を生きます。

 人がどんなに願っても、寿命が満ちると、いのちの息(神の霊)は去って行くのです。

 

 という事は、だれも生き続けることはできないということです。

 オギャアと生まれてから、人は限りある生命を生きているのです。

 死んだらどうなるか?考えても答えはでません。わからないのです。

 なぜ、生まれて来たのか?答えが見つからないまま死んでいきます。

 

 生命の期限は、神が設けられました。人が罪を増幅させて悪魔と同じになってしまう前に、終わらせられるのです。

 

 人は、神の御子、すなわち、神のことばである「神のひとり子」のために造られました。

 しかし、神のひとり子を憎み神に敵対する破壊者悪魔に騙されて、神のことばに背いた人は、死ぬ者となりました。人は、人が犯した罪、神の命令に背いて神の御子の敵である悪魔に従うことで、悪魔のあざけりとなりました。人は、悪魔に神を侮らせて、神の栄光を汚しました。

 

 神は、無から有を生じさせる創造主です。

 落ちた人を滅ぼして、人に代わる別の被造物を造ることだってできます。しかし、神はそうなさいません。

 

 神を侮る悪魔をぎゃふんと言わせなければなりません。悪魔に勝たせてはなりません。悪魔に捕らえられた人を捨てるならば、悪魔の勝利です。悪魔が神のものを分捕ったからです。神の敗北であると考えて悪魔は高ぶることでしょう。

 神がまた何かを創造しても、悪魔がそれを奪って神に勝利する、と息巻くことでしょう。

 

 神は、悪魔が想定できないことをなさる方です。

 神のひとり子に肉体を造って神の子羊とし、罪人の身代わりに、わが子を生贄としてその血を要求し、罪人の罪の贖いの血とされるというではありませんか。

 

 人は、土の塵から取られたつまらないものではありませんか。壊れれば捨てて、新しいものを用意すればよいではありませんか。

 神のひとり子は、神のひとり子の栄光の御姿を捨てて「人の子」となり、輝きのない土の器のために、ご自分のいのちを捨てる、というのですか。

 

 神の御子イエスは、父なる神に聞き従って、世の罪を取り除くために、十字架にかかり、罪の贖いの血を流されました。

 すべて、神の手順どおりです。

 天の御国の法に基づいて、御救いは実行されました。

 神と御子イエスと聖霊は一致しておられます。同じ御思いなのです。

 

 人は、十字架につけられた贖いの子羊イエス・キリストを信じて仰ぎ見るならば、罪が赦されます。

 荒野で神につぶやくイスラエルが、神が送られた燃える蛇、すなわち、猛毒の蛇に噛まれて死んでいく中で、モーセが木にかけた青銅の蛇を仰ぎ見る者は生きた。それと同様です。

 

 青銅の蛇を仰ぎ見る者は、神を信じ神に助けを求める者です。神は、彼らの信仰によって、彼らを生かされました。神に「青銅の蛇を仰ぎ見るならば生きる。」と仰せられても、仰ぎ見ない者たちは、死んでいきました。彼らは、不信仰によって滅びました。

 

 青銅の蛇を仰ぎ見て生きた信仰の人たちも、後には死にました。人はみな、先祖たちの道をゆくのです。先祖たちの道とは、死を迎えることです。死なない者は、だれひとりとしていません。女から生まれた者はみな、死ぬのです。

 

 神は、キリストを遣わされました。死から救い出す救世主です。

 世は滅びます。人も滅びます。

 罪人に死と死後の裁き(永遠の死)とをお定めになった神は、永遠の死から救い出すキリストを遣わされたのです。

 

 神は、罪人に、新しいいのちを用意されました。

 罪に落ちた人を滅ぼして、新しいものを創造されるのではありません。罪人の罪を贖って罪を赦し、罪が贖われた人に「生かす御霊」をお与えになります。新しく造り変えられるのです。

 

 人が生まれた時に吹き込まれる「いのちの息」は、やがて取り除かれます。肉体の人は、限りある生命を生きています。

 「神の霊が私を造り、全能者の息が私(人)にいのち(生命)を与える。」(ヨブ33:4)

 

 神の用意された、新しい創造は、肉体の人ではありません。一度死んでも甦らせて、永遠に生きる復活のからだであり朽ちないからだの新しい人を創造されます。

 

 肉体の人は、女から生まれました。 

 神は、肉体の人を、御霊によって新たに生まれさせてくださいます。女から生まれるのではなく、御霊によって生まれるのです。

 血すじによってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれるのです。

 

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、御自分の大きな憐れみのゆえに、イエス・キリストが死者の中から(御霊により)甦られたことによって(新しい人〈第二のアダム〉となられたことによって)、私たちを(御霊によって)新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産(天の御国の相続)を受け継ぐようにしてくださいました。これは(御霊のいのちを持つ)あなたがたのために、天にたくわえられているのです。

 (永遠のいのちが約束されている)あなたがたは、信仰により、神の御力(聖霊、すなわち、キリストの御霊)によって守られており、終わりのときに現わされるように用意している救い(永遠のいのち)をいただくのです。(肉体で生きている時には信仰によって信じていますが、その時になると、復活のからだと永遠のいのちとを得るのです)」(ペテロ第一1:3-5)

 

 死と死後の裁きが定められている罪人(人類)は、神が遣わされたキリスト(神の子羊イエス・キリスト)を信じて「義」とせられ、キリストがお与えになる聖霊によって、「新しいいのち」を得るのです。

 新しいいのちは、死なないいのち、天の御国にはいる永遠のいのちです。

 

 「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種(女、いのちの息によって息をする肉体の人)からではなく、朽ちない種(聖霊、生かす御霊)から、すなわち、神の変わることのない生けるみことば(神のことば)によるのです。」(ペテロ第一1:23)

 

 いのちの息で生きる人の生命は尽きて死にます。神のことばから外れているからです。

 神の御子イエス・キリストに信仰によって繋がる人は、神のことばに繋がった人です。神のことばは、「聖霊を受けよ。」と命じます。

 神のことばに従って聖霊を受ける人は、「生かす御霊」を受け、生ける神のみことばによって、永遠に生きる者とされます。

 

 いのちの息で生きている肉体の生命の期間に、キリストの御霊によって新しく生まれるならば、新しいいのちを得るのです。

 いのちの息は、やがて取り去られます。

 しかし、新しいいのちを得る人は、「死」を恐れることはありません。一度死んでも、死から甦り、復活のからだをいただくからです。

 

 イエスは、永遠のいのちを得させるために、遣わされました。

 聖霊は、天の御国にはいらせるために、遣わされました。

 

 イエスは言われました。

 「まことに、まことに、あなたに告げます。

 人は、水と御霊によって生まれなければ(悔い改めと、新しいいのちを得なければ)、神の国にはいることができません。

 肉によって生まれた者は肉です。(生まれつきのままの人は肉です)

 御霊によって生まれた者は霊です。(新たに生まれた御霊の人は霊です)

 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたし(イエス・キリスト)が言ったことを不思議に思ってはなりません。

 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それ(風)がどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。(人にはわからなくても神の御霊が成し遂げられるのです)」(ヨハネ3:5-8)

 

 私たちが、この世に生まれ、いま生きているのは、神の恵みと憐れみであり、神の用意された「新しいいのち」を得させるためなのです。