息をしている間は生きています。息が止まると死にます。
コンセントを繋いで電源をいれれば動き、電源をいれてもコンセントが繋がっていなければ動きません。
人は、いのちの根源である神のいのちに繋がっていれば生き、いのちの根源である神のいのちから外れていれば死にます。
生と死とは、相容れないものです。なぜならば、生は創造者である神に属するもの、死は破壊者である悪魔に属するものだからです。いのちの根源である神の属性は「いのち」、神から外れた悪魔の属性は「死」。
本来相容れないものが、被造物の中に混在しています。被造物の中に死が入ったのは、最初の人アダムが、神のいのちのことばから外れて、破壊者悪魔の言葉に繋がったからです。神のことばから外れた人は、神の全き善である真理の光を失い、真理の光から追放された反逆者悪魔の善悪を知る知識の木の実を食べて偽りの光を得ました。
真理の光の中には永遠のいのちがあり、偽りの光の中には永遠の死があります。
人間の中には、生と死とがあります。生と死を併せ持つ束の間の生命を生きているのです。
ひとりの人の中にある生と死は、すべての人のうちにあります。被造物全体が、この限りある生命を生きています。
しかし、神は、いのちの回復のときを設けられました。一度死んでしまった肉体の死に、新しいいのちを与え、新しい創造をされるのです。
神は、神のひとり子に肉体を造り、新しい創造の初めの「人の子」(主イエス・キリスト)を用意されました。
主イエス・キリストは、いのちの根源であられる神が、地上に遣わされた救い主です。死者を甦らせ、生かす御霊をお与えになる神の御子です。
「最初の人アダム」は、土の塵から造られた肉体にはいり、神のいのちの息によって生きるものとなりました。
神が人類の救い主として遣わされたキリストは、死から甦り、御霊によって生まれ、御霊のからだによって復活し、永遠に生きるものとなりました。キリストは、御霊による新しい創造の新しい人「第ニのアダム」となられました。
最初のアダムは、神のことばから外れて、悪魔の罪と繋がり、死ぬ者となりました。罪の報酬の死を受けたアダムは、神のいのちの息が取り去られて、土に還ります。土から取られたアダムは、土に還るのです。
キリストは、死をもたらす罪を世から取り除くために、生贄の神の子羊として、罪の贖いの血、すなわち、神に従順で一度も神のことばから外れたことのない、神と一つであるご自分の聖なる血を流されました。
キリストは、悪魔の言葉を退け、神のことばと一つでした。悪魔に隙を与えられません。キリストは、いつも神とともにおられました。
土から取られたアダムは、神のことばから外れ、悪魔の言葉と結びつきましたが、女から生まれた「人の子」イエス・キリストは、悪魔の誘惑に勝利し、神のことばによって悪魔を踏み砕かれました。
キリストには、罪がありませんでした。原罪ある女(罪を犯したエバの子孫)から生まれた方なのに、神のいのちのことばと一つであり、神のことばによって悪魔の言葉を退け、悪魔の罪によって汚されることはありませんでした。破壊者悪魔は、神と一つである神の御子イエスに足場を設けることができませんでした。
神のことばと一つであるイエスのいのちは、いのちの木とともにありました。アダムが食べた神のように賢くなるという善悪を知る知識の木の実は、イエスの食べ物ではありません。
イエスは、全き善であられる神御自身から知識と知恵を得ていたのです。キリストは、善悪の木の実の呪いに汚されることのない唯一の「人の子」です。神の子羊イエスは生涯、悪魔の言葉を退け、神のことばを食べていました。
神には暗い所が一つもありません。悪はないのです。イエスは、神の善によって、全き善を得ておられました。
悪魔に騙され、悪魔の罪(不信の罪、背きの罪)を犯したアダムは、神のことばに繋がって神と一つであることよりも、自分が神のように賢くなろうとして善悪の木の実を食べて、悪を知る者となったのです。すなわち、暗い所のある者となったのです。
アダムは、全き善であられる神のいのちから離れ、善悪を自分で判断して神のようになろうとする悪魔の死に捕らえられました。
こうして、アダムは、死ぬ者となりました。
神のいのちの息によって生きもの(息をして生きる者)となったアダムは、悪魔の言葉に従って罪を犯し、悪魔の死とともにある者となりました。神のいのちは去り、悪魔の死の中にはいったのです。
全き光の天から追放された悪魔は闇に住む者です。
神は、闇(罪)と、罪の報酬である死と、罪と闇の根源である破壊者悪魔と悪霊どもを永遠の火の池に投げ込んで滅ぼすことを定めておられ、裁きを用意しておられます。
死に閉じ込められた人類は、永遠の火の池に投げ込まれます。
しかし、イスラエルの神が遣わされたキリストは、死をもたらす罪の呪いをご自身が受けて、ご自分の血によって罪を贖われました。
キリストの血によって贖われた罪を、神は赦され、罪の贖われた人を、神は義とされます。
罪は裁かれます。正義の神が裁かれます。
死は、神の裁きの結果です。罪は死を生みます。
しかし、神はキリストを遣わすことにより、脱出の道を用意されました。死が定まっていた人が、罪の贖いの血を流すキリストを信じるならば、神との和解が成立するというのです。
神は、神と和解する者に、第二のアダムによって、いのちのやり直しを与えてくださいます。
神は、死ぬ定めの人が罪を認めて悔い改めるならば、キリストの血によって罪を赦して、裁きを免れる恩赦を与えて、神のことばに繋ぎ直すチャンスを与えてくださいました。神のことばに繋がれるならば、いのちの恩恵を受けます。
神のいのちの息で生かされていたアダムは、いのちの息を取り去られて死にます。
しかし、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じる者は、第二のアダムが死から甦り、御霊のからだで復活したように、キリストの生かす御霊を受けます。
肉体の人の神のいのちの息に変えて、新しい人、すなわち、キリストにあって新しく御霊によって生まれる人は、キリストの「生かす御霊」が与えられます。
生かす御霊は、永遠のいのちです。肉体を生かす息ではなく、魂を生かし霊を生かす御霊です。
御霊は聖霊であり、キリストと一つのキリストの御霊です。神は、神の御子の御霊を一人ひとりに授けてくださるのです。
私たちのからだの中に、私たちの意思とは異なる神の意思と、キリストの御思い、また、真理を教えキリスト・イエスのことばを思い起こさせてくださる神格者である聖霊、すなわち、主イエス・キリストの父が、一人ひとりに分け与えてくださる御霊を宿してくださるのです。
私たちは、神の霊、御霊の永遠のいのちとともに生きる者に造り変えられます。
私たちのからだは、聖霊の宮、神の神殿とされるのです。
いのちの神は、御自身のいのちの栄光を現わすために、私たちに、全焼の生贄も、罪のための生贄も、お求めになりませんでした。
神御自身が天からの神の子羊を用意され、御自分の民に屠らせなさいました。
神御自身のほうから、神ことばに背いて罪を負い、死に定めた人に、和解の御手を差し伸べられたのです。
神の御子イエス・キリストは、神の愛の御姿です。神には、神の愛を信じて神の和解の御手にすがり、神の御子イエス・キリストを信じる信仰の告白をして神に立ち返る者に、生かす御霊を与える用意があります。
神には、人を死者の中から甦らせる御力があるのです。
「新しい歌(真理の神をほめたたえる御国の賛美)を主に歌え。
主は、奇しいわざをなさった。」(詩篇98:1)
神は、一人ひとりの人生に、生を選ぶか死を選ぶか、永遠のいのちの道を行くのか永遠の死の道を行くのかの選択を用意しておられます。
神の御救いのことばに繋がる者の魂は、全き光の主のいのち【真理の御霊】を得て、永遠のいのちを得させられるでしょう。
彼らの心に光がともるでしょう。
「主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。
喜びは、心の直ぐな人のために。
正しい者たち。主にあって喜べ。
その聖なる御名に感謝せよ。」(詩篇97:10-12)
これらのことは、一人ひとりの人生の中の選択として起こります。
しかし、終わりの時代には、地球規模で、光と闇に二分されると言われています。
新しく造り変えられて生(永遠のいのち)を得る人の心には、いのちの光が灯され、生まれつきのままの人間は、死の闇に留まるでしょう。
「生」は信仰によって得ます。「永遠のいのち」は、信仰によって見いだした小さく狭い門をくぐり、御霊に導かれるまま神のことばとともに歩んで辿り着きます。
「死」は不信仰によって持っています。「永遠の死」は、世の多くの人が通る広い道の先にあります。