「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。
支配者の顔色をうかがう者は多い。しかしさばくのは主である。」(箴言29:25、26)
ヨハネⅠ 4:18には、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。
ローマ8:15では、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。
人を恐れるのは、神の愛の中に留まっていないからです。神の愛は、裏切りも偽りもない全き愛です。神の愛の中に居れば安全です。神を見失ってはなりません。神の中に逃げ込むのがよいです。神から目をそらすと、目に見える現実に押しつぶされそうになります。
夜中の三時ごろ、舟に乗っていた弟子たちは、湖の上を歩かれるイエスを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行きました。ところが、風を見て、怖くなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けて下さい。」と言いました。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
このことは、マタイ14:25-32に書いてあります。
ペテロはイエスの「来なさい。」ということばに従って、舟から出て、水の上を歩きました。ペテロは、主イエスを信じたのです。
しかし、歩き始めると、人間わざではない出来事に、一瞬、現実に目覚めたのでしょう。ペテロは、我に返りました。人間である自分が、何故、湖の水の上を歩いているのか。夢見心地の不思議な感覚から、いっぺんに恐怖に変わりました。
自分の周りは、荒れ狂う波です。そんな状況なのに、自分は舟から出て、身を守るものがありません。イエスのことばに引き寄せられて、舟を出たペテロでしたが、自分には何の備えもないことに気づいたのです。急に、怖くなりました。
幽霊だと思っておびえていたペテロの、それがイエスであるとわかった時の安堵は、もうありません。自分は今、何の防備もなく、水の上に立っているのです。
ぺテロの中に恐怖心が芽生えたとき、彼の信仰はどこかに行ってしまいました。イエスを見て舟から出たペテロでしたが、波を見て信仰を失い、沈みかけました。ペテロが水の上を歩いたのは、イエスへの信仰があったからです。
しかし、ペテロは、沈みかけたのです。沈みかけたから、怖くなったのではなく、波を見て怖くなったので、沈みかけたのです。
そんなペテロに、イエスは言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」ペテロは信仰によって水の上を歩き、不信仰によって沈みかけたのです。
ペテロの良いところは、「主よ。助けてください。」と、主イエスを求めたことです。自分で何とかしようとしたり、絶望することなく、すぐさま、イエスを求めたのです。主に信頼することで、信仰の薄い者でも、主の御手が伸ばされ、助けられるのです。
主への信仰と愛を見失うと、目に映る現実を見て、うろたえます。うろたえると、自分を助けてくれる人を求めたり、自分を守るために、人に迎合します。人を恐れる者となるのです。心には平安がありません。
イエスは言われます。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」
人を恐れるとわなにかかります。主への道がわからなくなります。主の愛が信じられなくなります。しかし、ペテロは、すぐに「主よ。助けてください。」と言いました。主を求めればよいのです。自分が人を恐れていると感じたならば、すぐに主の御名を呼びましょう。「主よ。助けてください。」と叫ぶならば、御手がつかんでくださるでしょう。
主に信頼する者は安らかです。主に信頼する者は守られます。主が、その人とともにおられるからです。
自分の上に立つ支配者の顔色をうかがう者は多いです。支配者に好意を受け、自分の居場所を確保したいと思います。治める者の歓心を得ようとする人は多いですが、人の事を定めるのは主によるのです。
いのちの権威を持つのは、支配者ではありません。支配者に憎まれ嫌われると、社会においては惨めな結果を招きます。神の子らは、この世のものではありません。この世の寄留者なのです。他国人なのです。世の人々に理解されないのは、当然のことです。
全き神の愛にすがる者は、いのちの権威者、いのちの支配者とともにいる者です。恐れることはありません。
この世で、悪いものを受ける惨めな者でも、神の愛の中にいるならば、落胆しなくてよいのです。支配者の評価が、そのまま、神の評価ではないからです。人を評価する方がおられるのです。
権威を振りかざす人も、神の権威には適いません。神の権威の御前では、つまらない小さな存在です。なぜならば、神が人の値打ちをはかり、さばかれるからです。神の裁きの前では、誰も申し開きができません。
権威ある者がどんなに力を持ち、人々を恐れさせたとしても、人をさばくのは主です。