「たとい私がささげても、まことに、あなたは生贄を喜ばれません。全焼の生贄を、望まれません。(神の為に自分自身の労力や財産をささげて犠牲を払っても、神はそれを受け取られません。神は、お金や物で解決する人間とは異なります。神へのささげ物は、物ではなく、心です。神は、人の心を喜ばれます)
神への生贄は、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それ(罪を悔いて痛み悲しむ真実な心)をさげすまれません。」(詩篇51:16,17)
罪に気づいて、罪を捨てることは、いのちの道を歩むのに、とても大事なことです。
罪に気づくことが第一歩です。
罪かも知れない、と思いつつ、でも、罪とは言えないかも知れない、私は知らなかったのだ、と自分をかばう思いに襲われます。
自分の罪を認めることは、喜ばしいことではありません。自分が信じてきた事がひっくり返るような場合もあります。その場合、自分自身がわからなくなってしまいます。
自分の信仰は何だったのか、何が真実で何が本当なのか。土台から崩れ落ちます。霊も魂も、思考もぐちゃぐちゃになります。今までの信仰は、私の何も救わなかったのか。自分のうちにあった喜びや楽しみや平安や希望は何だったのだろうか。私は、自分自身に騙されていたのか。偽りを信じさせられていたのか。
自分自身を責めることは、とてもつらいことです。誰かにささえてもらいたいです。すると、ひそかに自己処理能力が稼働し、自分のほかに責任転嫁して、自分自身をささえます。
しかし、本当の解決にはなりません。心の中は殺伐として、実りをもたらしません。霧の中をさまよう感覚で、自分が今どこにいるのかわからなくなります。
罪を認めるところから、道は設けられます。脱出の道です。
罪を認めることには勇気がいります。簡単そうで容易ではありません。自分との戦いです。誰かに代わってもらいたいけれども、丸投げできません。
しかし、神は、あなたの罪の身代わりにあなたの罪を負って死んでくださった御子イエスのことを思い起こさせてくださいます。
自分の罪を負ってくださった神の子羊イエスのことを思い出した時、頑なな心が動き始めます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(罪の贖いの血を流した神の子羊イエス)のところに来なさい。わたし(神の子羊イエス・キリスト)があなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
罪を犯したのは私ではないですか。それなのに、何故、あなたは私を責めることなく、優しいお言葉をかけてくださるのですか。私の傷は、私の罪ゆえなのです。それなのに、私の罪のために、そのわき腹を刺し通され傷つけられたあなたが、私の罪を赦し、私の傷を癒してくださるのですか。
キリストの愛は、私たちの心を癒し、素直にさせてくれます。
自分自身の口で、目に見えない神に向かって、自分の罪を言い表わすと、不思議なことに心の荷が軽くなり、晴れやかになっていきます。
暗闇に押し込まれ窒息状態だった魂は、息を吹き返すと、改めて自分の不義を知り、ただただ神の御前にひれ伏して、豊かな神の御恵みに浸ります。罪の赦しを実感した魂は、感謝と喜びに溢れて、神を讃えます。
罪を悟った罪人は、神の御前にひれ伏して、心を注ぎ出します。これが、神に喜ばれるささげ物です。
その人の心には、もはや自分をかばい、自分を正当化しようとする自己弁護の言葉はありません。罪は恥となり、罪を慕う心はありません。
あるのは、罪を認め、罪と戦う砕かれた心と、罪の道を恥とし罪の道を進んでいたことを悔いる心です。
神は、この魂を取り戻されました。悪魔の策略にかかった魂は、神を求め、神に罪を言い表わして、神の御名によって救われたのです。
神のみもとに帰った魂は、罪の贖いのための生贄ではなくて、罪を赦してくださる神の憐れみを信じ、神に罪を言い表わして、義の生贄をささげたのでした。神が罪を赦してくださる憐れみ深いお方であることを信じたのです。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理(神の霊)は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)
みことばの真実を体験しました。
多くの人は、悔いることで、神に赦されていると思っていますが、悔いる状態は、そのところから一歩も進んでいない状態です。悔いているうちは、過去に縛られているのです。
重荷をひきずったまま、苦しみながら、地をはう状態から解放されていないのです。それが、自分への断罪と考えます。その人のうちには、神への信頼がありません。
神の子羊イエス・キリストの罪の贖いの血の恵みを信じていないのです。それは、不信仰の罪です。罪の上に罪を重ねています。
神は、神の子羊イエス・キリストが十字架で流した罪の赦しの血が完全であることに満足しておられます。
それなのに、罪人は、キリストの完全な贖いの血を求めません。罪を犯すと、人は、自分の血を差し出さなければならないと思っています。
神が満足されるのは、キリストの聖なる血です。すべての罪をおおう完全な血です。罪人の血を要求してはおられません。
神が望まれるのは、自分の罪を言い表わして悔い改め、キリストの血の贖いの中に入ることです。それが、人に与えられる神の救いであり、神に受け入れられる信仰なのです。
キリストの血の力を信じること、そして、神の子羊イエスの血に罪の赦しと神との和解があることに信仰と希望を持つこと、また、神の約束に信頼して、自分自身の義を捜し求めるのではなくて、赦してくださる神の義(信仰)に立ち返ることが、悔い改めて向きを変えることです。
イエス・キリストの血による神の赦しを信じること、キリストの愛を信じること、神の用意された赦しと開放の御恵みを疑うことなく、幼子のように素直に信じ、神の赦しを受け取ることが、「神の義」です。神が人を義とされるのは、信仰によるのです。
神は憐れみ深い方です。私たちが滅ぶことを望まれません。
「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―主である神の御告げ。―だから、悔い改めて生きよ。」(エゼキエル18:32)
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(詩篇51:10-12)
神に赦されて感謝と喜びに溢れ、神のみもとに留まる人は言うでしょう。
「私は、(神に)そむく者たちに、あなたの道(罪を悔改めて神に立ち返る道)を教えましょう。(もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。〈ヨハネ第一1:9〉)
そうすれば、罪人は、あなた(私たちに永遠のいのちを与えて、生かしてくださる神)のもとに帰りましょう。(神にそむき、神から離れたことを悔いている)罪人は、あなたのもと(神の愛)に帰りましょう。」(詩篇51:13)