警察犬になるための基本トレーニングに、「座れ」「伏せ」「待て」をはじめとする、服従訓練があるようです。
「座れ」は、犬が命令を聞く態勢になる訓練のようです。そして、たいていの行動をコントロールできるそうです。
「伏せ」は、犬が主人に対して服従を誓っていることを意味すると同時に、リラックスした状態で長時間待ちやすい姿勢を覚える訓練のようです。犬の興奮のコントロールができるようになるそうです。
「座れ」や「伏せ」は、犬が相手を落ち着かせるコミュニケーションの手段としても用いられる行為でもあり、緊張をほぐす行為でもあるようです。
「待て」は、指示と同時に動きを止め、許可が出るまでその場でじっとすることで、待機という意味合いがあるそうです。
「待て」を学ぶと、どんな時でも待つことを覚えます。「伏せ」を習得したあとのほうが「待て」を訓練しやすいそうです。
神が、神のしもべを整える訓練は、警察犬の訓練のようです。
神のしもべも、主人である神から、神の御前に静まって神のみことばを聞く「座れ」の訓練が必要でしょう。
また、主人である神に服従を誓う「伏せ」を学び、どんなことが起ころうとも、ただ、神の導きを待ち望む忍耐と柔和を身に着けるのでしょう。
そして、主人である神の許可があるまで待機する従順を学ぶ「待て」の訓練が必要です。
これらの基本の訓練を合格して、神の国の働きが任せられます。
一般の犬が警察犬となるためには、排便のトレーニングや集中力を高めるトレーニングなどを数か月間にわたって行なわれ、その結果、警察犬としての適性が認められ上級検定に合格した犬が、嘱託警察犬となって、警察犬の訓練を受けるのだそうです。
神の律法を知らなかった異邦人が神のしもべとなるためには、まず自分のことは自分自身で責任を持つ自立性が問われ、自分の足もとがしっかりとし、責任転嫁や自己憐憫のわなにかからない人が合格者として、御霊の訓練にはいるのでしょう。
この神のしもべの訓練にはいるためには、聖霊のバプテスマは必要不可欠です。
イエス・キリストが教えられた「天の御国」にはいるのは、ユダヤ教のシナゴーグでも、キリスト教の教会でもありません。
もうひとりの助け主である「真理の御霊」に聞き従う「御霊の教会」です。
御霊によって、神の御声を聞き、神の導きを知るのです。神の御声が聞こえなければ、どうして聞き従うことができるのでしょうか。
私の実家の近くのお寺の住職が話しておられたのを思い出します。
檀家がなくなると、お寺の銅鑼(どら)がひとりでになるそうです。その音は、住職の耳には聞こえますが、ほかの人に聞こえる音ではありません。
どらの音を聞いて、住職が檀家の死を知ると、そのあとで、遺族が来られるのだそうです。葬儀屋が一般的ではなかった時代の話です。
聖書を知らない仏教の僧侶が霊的な音を捉えていました。そして、務めをしていたのです。
クリスチャンでなくても、危険を知らせる微かな声や音、また、虫の知らせのような体験する人は多いと思います。この感覚を持つ人は、クリスチャンでなくても、御霊の教会へと導かれている人なのかも知れません。
生けるまことの神がお与えになった「聖書」を教えるキリスト教会のほうが、こういう霊的な体験に懐疑的です。聖書のみことばは知っているのに、霊なる神がよくわからないのです。懐疑的ということは、信じていないということです。信仰のない者に、神の御声を聞くことはむずかしいでしょう。
御霊を受けると、目に見えることよりも霊的感覚で捉えたことのほうが真実なのではないのか、と思えるような体験をしていきます。
神の御前で静まることを学び、物事を霊的感覚で捉える方向に向きます。そして、霊的感覚を鍛錬するうちに、霊的な見分けも学びます。これは、人に教えられるというよりも、御霊に教えられるものです。自分の霊で、御霊の感覚を学んでいきます。
「あなたがたの中に知恵の欠けた(御霊の知恵に欠けた)人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(多くの人は、神ではなく、教会に、また、牧師に求めてつまずきます。願う相手を間違えています。神に願うのです。お与えになるのは、神だからです)
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1:5-8)
少しも疑わずに、だれにでも惜し気なく、とがめることなくお与えになる神を信じて願い続けることです。
神を信じて、それがもらえるまで、しつこく祈り続けることです。怠け者は、「神は全能のお方だから、何度も祈る必要はない。多く祈ることは神に信頼していないからだ。」と言います。
しかし、イエスは、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、たとえを話されました。
神を恐れず、人を人とも思わない悪徳な裁判官は、「私の相手を裁いて、わたしを守ってください。」と幾度も訪れるやもめに、しばらくは取り合わないでいたが、「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがない。私は神を恐れず人を人とも思わないが、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。」と言った。
この不正な裁判官の言っていることを聞くように、とイエスは言われました。
そしてまた、イエスは言われました。
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために裁きをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しい裁きをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき(死から甦り「永遠に生きる新しい人」となったキリスト・イエスが再び地上に来られるとき)、はたして地上に(神を求め続ける熱心な)信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:7,8)
二心の人は、神を信頼をしていません。信仰と不信仰が同居しているのです。
ヤコブは言います。
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(神が遠くに感じるのは、あなたが神に近づいていないからです)
罪ある人たち。(心が神とひとつとなっていない人たち)手を洗いきよめなさい。(だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手〈行い〉がきよく、心がきよらかな者、その魂をむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。〔詩篇24:3-5〕)二心の人たち。心を清くしなさい。(救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。〔エレミヤ4:14〕)」(ヤコブ4:7,8)
神の御前に静まり、神の命令を聞くしもべの心。神に聞き従う服従の精神で、神に仕える謙遜。神の時に神のことば(御霊)に従う忠実。
神は、神のしもべを訓練して、整えられます。
主人に忠実なしもべになると、神は、御自分のものを任せられるでしょう。
神が東京に行くことを示されてから十年経っても、開かれませんでした。その間、地方の教会に属していました。大阪の教会へ、次に誕生した京都の教会へ、そして、次に誕生した岐阜の教会へ、と、住まいからより近い教会に移りました。そこが、忍耐の場所でした。我慢の限界が来ていました。しかし、神は、許してくださいません。そこに居続けなくてはなりません。
名古屋の教会ができ、神に祈って祈って、とうとう許しをいただいて、名古屋の教会に移りました。東京に行くのが、どんどん遠くなって行くようでした。(今では、未熟だった岐阜の教会には愛があり、とても心安らかな教会だったように感じます)
そして、やっとGOサインをいただき、東京の教会に移住することができました。
その時、神が言われたことばがありました。
「あなたが岐阜の教会を飛び出さないで、忍耐を持って、そこの訓練を受け続けたゆえに、わたしは東京の道を開いた。」