神は選択の時を用意しておられます。
肉のいのちを選ぶか、霊のいのちを選ぶか。
肉のいのちとは、死ぬべき肉体の命であり、生き長らえることです。魂は裸です。肉体の死とともに、裸の魂となります。裸の魂を覆い救うものはなく、永遠の死に向かいます。
霊のいのちとは、死ぬべき肉体の命を神にささげ霊魂によって生きる新しいいのちです。新しい復活のからだを得ます。肉体が死ぬと、魂は御霊のからだを着るのです。新しいからだには永遠のいのちがあります。永遠の安息にはいります。
これからの世は、魂によって分けられます。
これまでの世は、国や民族、言語によって、分類されていました。目に見えるものが物差しでした。
しかし、これから先の世は、目に見える肉体の特徴や国籍によってではなく、おのおのの魂の選択によって分類されます。
肉体の人の本質、すなわち、めいめいのうちにある魂、目に見えない魂の属性によって分類されます。
魂がどの霊に繋がり、どんな霊に属するのか、によって分けられるのです。
例えば、日本民族は、仏教徒、神道、キリスト教、そのほかの宗教、無宗教など、自分の魂の居場所をもっています。そのように、自分のうちにある信心が何と結ばれているか、によって、おおまかに分類することができます。
スポーツや音楽、芸術、自然鑑賞や旅行などの趣味などは、社会的立場が違っても、共通の話題となります。
細かく分ければ、同じスポーツに興味を持って精神的支えと喜びが似ていても、魂の居場所が同じかといえば、そうではありません。
同じ家族であっても、魂の居場所は各々の魂が選択します。
突き詰めて言えば、何を信じるのか、ということだと思います。心の根底にある精神的な求めです。
読書が心を満たすものだと思う人がいても、どのジャンルの本に心が惹かれるのかは、人それぞれです。その人の心底にあるものが、自分に必要なものを引き寄せているのです。
自分に引き寄せるその働きは、実は、その人のうちにある魂によるもののようです。本人は意識していなくても、魂は生きていて、無意識層でいつも活動しています。
魂には、いのちと死の記憶が残っているのでしょう。
神のことばとともにあったときの秩序正しい調和と愛と喜びと平安。また、神のことばから外れた後の不調和と無秩序の苦しみと怒りと憎しみと争い。
ほとんどの人は、肉体の中に真理の記憶を持つ魂があることを知らずに生きています。
魂は、サインを送っています。人はそれを虫の知らせと呼びますが、魂の声であることに気づきません。時間とともに、気のせいだと思い直して忘れるのです。
人は肉体を持つ物体ですが、霊的存在でもあります。それゆえ、死んだ後にどうなるのか、どこへ行くのか、と心を巡らせます。
そして、何かを信じて、死んで行く生命を支えて生きる力を得させる、心の拠り所となるものを捜します。
たとえば、キリスト教会に属する人々は、社会的立場も年齢も家族構成もまちまちです。先生もいれば生徒もおり、専業主婦もいれば職業婦人もいます。職業もまちまちです。
しかし、同じ主を信じて、主を礼拝するために集っているのです。同じ主に仕えるキリストのからだであり、神の家族です。
同じ信仰によって、彼らは一つの群れとして、分類されます。様々な教派があっても、社会的には、キリスト教のくくりに入れられます。
仏教も、神道も、そのほかの宗教もそうでしょう。
キリスト教の人は、私たちは仏教とは異なると思っています。しかし、社会的には、キリスト教も仏教も神道もそのほかの宗教も、宗教というくくりに入れられます。
これからの分類は、いのちか死か、の分類に分けられるようです。
初めはぼんやりしていますが、次第にはっきりとして来ます。光と闇とに分かれるからです。
もちろん、死に属する人が、自分は死を選びます、とは言いません。その道が永遠の死に属していることを知らないのです。
肉体の人は、真理を見極めることができません。
肉体のうちにある霊魂によらなければ、目に見えないものの価値を悟ることができないのです。人は、平等に、霊魂を持っています。
魂に素直な人は、目に見えない世界にも思いを馳せます。目に見えるものが永遠に続くとは思っていないからです。
目に見えるものに永遠がないことを悟っています。
魂は、永遠を求めています。肉体は寿命があって死にますが、霊魂は死ぬものではないことを感じているからです。
生命のあるうちに、魂の望む方向に進んで行く人は幸いです。
自分を客観的に見る目を持つ人は、感情に振り回されなくなります。そして、魂の部分と繋がり始めます。自分のうちに、冷静なもうひとりの自分がいることに気づきます。
自分のうちに無意識層に住むもうひとりの存在があることを悟らせるのが、仏教の禅であったり、教えなのでしょう。
神道は、神という主体を持って自分のうちを探ります。神は、自分のうちを照らす光であり、その光に自分の姿を映して内省し自分を正します。
キリスト教は、神のひとり子の存在を知らせます。天から人の姿で来られた魂の救い主イエス・キリストです。キリストに結ばれて、イエスの父であられる天の神のみもとに帰る希望を持ちます。
キリスト教は、世界中の宗教の中で、一番多くの信者がいます。キリスト教徒の数は、仏教徒よりも神道の人の数よりも断然多いのです。
人はみな、幸せになりたくて、心の平安を得たくて、魂の安らぎを得たくて、死後に安心を得たくて、先の見えない霧のたちこめた生命の先にある真実、裏切られることのない確かな御救いを求めて、おのおの選んだ宗教に身を置いているのです。
天の神は、あらゆる宗教に真理のことばが語られることを許しておられます。地上のすべての神々は、天の神のことばの恵みを受けて、真理の道を設けています。
いのちの根源であられる天の神は、生けるまことの神で、永遠のいのちを得させる唯一の神です。
あらゆる宗教の中で、真理のことばは光を放っています。その真理のことばがあるので、人々はそこに群がるのです。
神は、すべての宗教の中に、真理のことばに飢え渇く真実な魂があるのをご覧になっておられます。
天の神、永遠に生きておられるまことの神は、神の御霊を注がれます。すると、真実な魂は、どの宗教に属していても、宗教に属していなくても、神の霊をとらえる感性によって、真理の御霊に引き寄せられるのです。
どの宗教が救われ、どの宗教が滅びるのかという話ではありません。
神が終わりの日に注がれる真理の御霊に、霊魂が結び合わされる者は、永遠のいのちを得ます。神の御救いは、肉体の人ではなく、うちなる霊魂なのです。
キリスト教を信じていても、キリスト教会に属していても、肉が固くて霊魂が開かれていない人には、真理の御霊がわかりません。
熱心なユダヤ教徒であったサウロは、神の御子イエス・キリストを信じず、偽りのことばでユダヤ人たちを騙す男であると信じていました。それゆえ、イエス・キリストを十字架につけることに賛成し、イエスの教えを広めるイエスの弟子たちを迫害し殺戮することは、神の正義だと堅く信じていました。
神の律法(聖書)を守ることに忠実であると自負していた熱心なユダヤ教徒サウロは、文字に仕えるユダヤ教徒であり、生けるまことの神を知らなかったのです。
しかし、神の霊が臨むと、理屈ではなく、聖書のみことばによってではなく、正しい知識を得ました。神の霊に打たれて視力を失ったサウロは、死から甦らえた復活のイエス・キリストを見たのです。
サウロのうちにあった文字の律法は、ガラガラと崩れ落ちました。律法によっては、安息がありませんでした。サウロは、神の霊によって真理を悟りました。十字架につけたナザレのイエス、神の子羊イエスが救い主キリストであることを、明確に知ったのでした。
サウロの身に起こったことが、終わりの時代に、あらゆる宗教、あらゆる国、あらゆる民族で起こることでしょう。
サウロは、自分の身に起こったことを否定しませんでした。自分の知識や地位や立場ではなく、神の知識を握ったのです。
そして、十字架につけたナザレのイエスが、神がイスラエルに遣わされた神の御子キリストであることを、大胆に、ユダヤ人たちに宣べ伝える、キリストの使徒パウロに生まれ変わったのでした。
魂に救いを求める人たちは、神の霊に従い、霊のいのちを選ぶことでしょう。
しかし、宗教の中の立場や地位、あるいは、この世に未練のある人たちは、聖書の文字のみことばを握り、また、それぞれの宗教の教理に立って、生けるまことの神の霊を怪しみ退けるでしょう。彼らは、肉のいのちを選んだのです。
自分の霊魂を大切にし、魂の声を聞いて素直に従う人は、神の霊の発するみことばを聞き分ける磨かれた感性により神の霊と繋がり、自分を救うのです。
純真な魂は、神の羊の魂です。
魂の救い主、永遠のいのちを得させる千年王国の王イエス・キリストは言われます。
「わたしの羊(神の羊)は、わたしの声(御霊の声)を聞き分けます。(神の霊を感じ取ります)またわたし(神の霊)は彼ら(真理のことばを信じる純真な魂)を知っています。そして彼ら(真実な魂)はわたし(真理の御霊のことば)について来ます。
わたし(真理の御霊)は彼ら(真実な魂)に永遠のいのちを与えます。彼ら(真理の御霊に従う魂)は決して滅びることなく、また、だれもわたし(とこしえの王、いのちの主)の手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたし(神の子羊キリスト)に彼ら(御霊とともにある真実な魂)をお与えになった父(子羊の父、天の神)は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父(裁き主なるいのちの根源)の御手から彼ら(永遠のいのちを得させられる御霊の教会)を奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:27-29)
霊のいのちを選ぶ者は、肉に死んでも、御霊によって新しく生まれる信仰の人です。
しかし、不信仰な人は、霊のことがわからず、肉のいのちを選ぶのです。
不信仰な人は、真理の御霊を受け入れることができません。
イエスは言われます。
「(真理の御霊のことばを聞き、みわざを見ても)あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」(ヨハネ10:26)
肉のいのちを選ぶのも自分自身、霊のいのちを選ぶのも自分自身。
どちらを選ぶかが試されて、各々、自分の選んだ道を進んで行き、二つの群れに分かれるのです。